母を想う。せめて声だけは残しておいたほうがいい。

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アラフィフの日々の暮らし。
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明日は母の三十三回忌。母の命日が近づくと毎年空を見上げる癖がつきました。今、どうしてる?って聞いてみたくなるような秋空の下、母はこの世を去りました。

それはいきなり訪れました。全く動くことができなくなった母、声をかけても答えてはくれない母。弟や妹たちが泣いても抱き上げようともしない母。

いろんな人が入れ替わり立ち替わり病室に入ってきます。もう30年以上経ってしまったからか、記憶が朧げになってきてしまったけれど、研修医の人たちを引き連れて担当医が入室してきて、あれやこれやとぼそぼそと話しているとき、「出てってください!」と言ったことだけははっきり覚えています。

たぶん、もう手の施しようがなかったんだと思う。その命が尽きるまでそこにいるしかなかったんだと思う。

何が何だか分からず、冷たくならないように手や足をさすりながら、弟や妹たちをあやすことしかできず。時が経つにつれて不安だけが積もっていったあの日。

あれから30年が過ぎ、正直な気持ちを書いてしまえば、娘として生きた時間が少な過ぎた。

法事や母の墓前に立つときだけわたしは娘に戻る。

息子や娘が自立し、それぞれがそれぞれに辛いことや苦しいこと、もちろん嬉しいことや楽しいことと向き合い、生きてくれていることだけが救い。

お母さんと呼ぶよりお母さんと呼ばれることのほうが圧倒的に多かった人生。

最近、母の声を忘れていることに気付いた。昔は街中で似た声を聞くと反応していたように思うけれど、ここ数年はそれがまったく無くなってしまった。

まさか、母の声を忘れるなんて…。

母をよく知る人は私の声が母の声によく似ていると言うけれど、自分の耳に入ってくる自分の声はそれとは違う。

どちらかといえば妹のほうが似ている?ような気がする。雰囲気も妹のほうが似ているし。

まだ家庭にビデオがあるような時代じゃなかったし、写真は残ってるけど声が残っていない。映像でも残っていればよかったのに、と今の時代を思うと少し悲しくなってくる。

だから、伝えたい。

母の声、父の声は何かの形で残しておいた方がいい。声を忘れてしまうってどうしようもなく寂しいから。

これからは孫も大きくなるし、これからも孫が生まれてくるかもしれない。今の時代だからこそ、動画は撮っておいたほうがいい。少なくても声だけは残しておいたほうがいい。

台風の進路が気になりつつ、明日の準備を始めている。どうか滞りなく三十三回忌を終えることができますように…。

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