写真共有アプリも善し悪しだな、という話。

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こどもとまごっち
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わが夫婦にとっては初となる孫の誕生を機に、長男の嫁から写真共有アプリに招待された。最近はこういうサービスを使って孫の成長を見守ることができてありがたいものだ。

が、普段の様子を撮影し共有するからこそ、見たくないものも見えるわけで。たとえば、食卓にシールがたくさん貼られていたり、大きなおもちゃが散乱していたり…。

こういうことに「ん?」とひっかかってしまう、そんな自分の器の小ささ。気にしなきゃいいという夫の声。そうなんだけどね、小さい子がいれば仕方ないよね、分かってる。

なのに、こういうところに目がいってしまう自分に対して、アプリを見るたび自己嫌悪。自己嫌悪したくないのでアプリを見る機会が減った。

この手の写真共有アプリ、誰が見たかっていうのが分かるようになっている。夫はそういうのを目にしても気にしない、孫の可愛さだけを堪能できるからアプリをしょっちゅう見ているけれど、わたしは自己嫌悪したくないので見る機会が少ない。

いや、実際は夫が「見てみ!」とアプリを見せてくれるので「見てはいる」。が、アプリには何週間も見ていないと出てしまう。

ときどき、お嫁さんから写真に対してコメントが入っているのだが、夫はコメントを返すようなタイプではなくそのまま放置。いや、コメントには返してやらんと…とコメントが入ると自分のスマホからコメントを返す。

見ちゃうとまた〇〇心がムクムク→子どもが小さいうちは仕方ない、こういうの気にしてしまう自分の器の小ささに自己嫌悪、となる。

遠く離れて暮らしているから、孫たちはどうしてるだろうと同じ年頃の子を目にすると気になるのは確かだし、大きくなった様子も見たいのも確か。

そういうことにいちいち反応する自分の器の小ささを再認識すると、義理の母(夫の母)も同じように感じていたかもしれない、感じていたかもしれないけど注意されるようなことはなかったので、すごいなと思う。

どんな暮らしをしているのか、息子も含め気になるけれど、わたしの精神衛生上、何も言うまい、見まい。子どもたちはそれぞれの生活を送っているのだから。

子どもたちが巣立った家に夫と二人でいると、あの騒がしかった日々が懐かしく思い返される。あの頃は、この騒がしさが永遠に続くと思っていた。いつになったら終わるのだろう…といっぱいいっぱいになって涙した日もあったのに。

ずいぶん勝手な話だな。寂しさでネガティブになっているのかもしれない。

自分の身勝手さに落胆しつつ、それでも日々を過ごしていけている。それだけでも大したものだ。仕事をしていることで気が紛れているということもあるのだろう。

3人の子どもたちがいた頃は、1日24時間では足りない!なんて言ってたけど、ここのところは、仕事の契約を変えたこともあってずいぶんのんびりしたスケジュールになった。

「暇になったからいろいろ考えてしまうんちゃう?」

と夫に言われる。確かにそうかもしれない。脳が暇なのかもしれない。あの忙しかった頃にこの仕事量ならもう少し余裕持って子どもたちに接することができたんじゃないか…、なんて考えたりもする。

写真共有アプリの話からそれてしまったが、寂しさ+〇〇目線=自己嫌悪の日々から抜け出したい。

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